蘇我一族

  古代の権力者、蘇我馬子(?〜626)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(特別史跡、7世紀前半)の隣接地で、建物跡2棟分が見つかった。

 日本書紀は、馬子の墓を築く際に蘇我一族が現場に泊まっていたこと伝えており、その宿泊施設の跡である可能性が高いという。

 一族の紛争の発端になった場所でもあり、飛鳥時代の古墳造営や権力闘争の実態解明につながる新材料となりそうだ。

(飛鳥時代の「墓を暴く」)

 日本書紀には、古墳に関連する建物についての記述は馬子の墓以外にない。一般的に古墳の周辺を調査する例は少なく、今回のような遺構が見つかるのは異例という。

 県道工事に伴って石舞台古墳の周辺に広がる島庄遺跡内の棚田約280uを調査。古墳東側の外堤(推定)から約30mの所で計9本の柱穴(直径約20cm)が見つかり、6本の列(約8m)と3本の列(約3m)に分かれていた。

 いずれも古墳石室と同じ北北東―南南西の向きに並び、7世紀前半の土器が出ており、古墳築造と同時期の2棟の建物跡と判断した。

 又、一辺と深さが2m近い四角い穴の一部が二ヶ所で見つかった。それぞれ直径約30cm、高さ10m以上の柱が立っていたらしく、儀式や目印に使われたとの見方がある。直径約20cmの旗竿を立てた可能性のある穴や、砂利敷きもあった。

  日本書紀は、628年に「蘇我一族が馬子の墓(桃源墓)を造るため墓の地に泊まっていた」と記述。

 推古天皇の後継問題を巡って馬子の子の蝦夷(?〜645)と対立した境部摩理勢(?〜628)=馬子の弟=が「宿泊所を打ち壊した」とし、後に蝦夷側に殺害されたと伝えている。

(「朝日新聞・2006年(平成18)3月9日 朝刊

  島庄遺跡31次・石舞台古墳東側隣接地の調査

 (奈良県橿原考古学研究所・現地説明会より)

 今回の調査は、多武峰に向かうバイパス道路路線計画の策定に先立つ、遺跡有無の確認調査です。

 今年度は石舞台古墳東方の尾根にある棚田のうちの2筆を調査対象とした。低い西側を第二調査区と呼ぶ。第一調査区の長さ74m、第二調査区の長さ68m、幅2mの調査区を設定。2006年2月初めに着手現在も調査継続中。

  第一調査区   大柱穴が1基出土。柱穴の大きさは、一辺1.8m深さ1.8m,20cmの柱の痕跡があった。7世紀前半の土器が出土した。

  第二調査区  ここでも大柱穴が1基出土した。一辺1.6m、深さ1.5mで径30cmの柱の痕跡があった。その他に、主軸方向が東へ25度振れた柱穴列が出土した。少なくとも2列確認できている。

 北側の柱穴列は、柱穴の大きさが一辺0,5前後、柱間が1.7m前後。5間分確認した。南側の柱穴列は、柱穴の規模や柱間距離は北側柱穴列と同じです。

2間分あります。北側と南側の柱穴列が同一の柵になるのか、別の建物になるのかは不明。又、北側の柱穴列に接して砂利敷きが出土しており、柱穴列との関係性が濃いものと思われる。砂利敷き部分より7世紀前半の土器が出土した。

  調査成果   今回出土した柱穴列の方向は、これまで島庄遺跡で知られる建物群の方位のいずれとも異なり、石舞台古墳の主軸とほぼ同じです。出土土器が示す7世紀前半は、石舞台古墳の時期とも合致する。

 大型柱穴には、高い柱が立てられていたと思われる。檜隅陵(欽明天皇陵)の周囲に氏族ごとに大柱を建てたという日本書紀の記事を参考にすれば、石舞台古墳に対して建てられた大柱の痕跡であるかもしれない。

 今回の調査地周辺には、石舞台古墳と密接な関係のある遺構が広がっているようです。

迂回路どこに?/蘇我一族宿泊所?発見

20060309

写真

  明日香村の島庄遺跡で発見された蘇我一族が泊まったとされる宿泊施設跡。多くの観光客が訪れる石舞台古墳(特別史跡)北側に隣接する狭い県道に代わる新たな道路をつくろうと、県が試掘している最中に見つかった。県側は「新たな発見はある程度覚悟していたが、どこに道路を通すべきか、悩ましい問題だ」と頭を抱えている。

  新たな道路を作るきっかけとなったのは、石舞台古墳の脇を通る県道約400メートルの区間。行楽シーズンになると観光客の車であふれる。幅員は最小で5メートルしかないため、5年ほど前から拡幅を求める声が上がっていた。

 だが、この区間は特別史跡区域にかかる。拡幅には文化庁の許可が必要で、「現状変更を認めてもらうのは極めて難しい」(県担当者)。古墳の北や南に大きく迂回する道路をつくる案も検討されたが、棚田や国営飛鳥歴史公園の景観などに影響を与える可能性があるという。

  そこで昨年、古墳の北東に幅8メートルの車道2車線、約470メートルの迂回路をつくる案を前提に、周辺を試掘することで県と村などが合意。1月末から試掘が始まった。

  県は今後、今回の発見の重要性を詳しく分析し、場合によってはさらにルートを変更して、迂回路の概要が固まれば有識者を交えた専門委員会を立ち上げて景観や文化財への影響を検討するという。担当者は「試掘はさらに数カ所必要だろう。今後の対応は村などと相談して、慎重にやりたい」と話す。

  和田萃・京都教育大教授(古代史)は「島庄遺跡の西側は蘇我馬子邸とみられる遺構がみつかったが、東側は今回が初めて。地形的には今回のような遺構が北側にも広がっているようにみえる。道路をつくれば、遺構を縦断することになる」と懸念している。

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蘇我一族と石舞台その後の現地写真
甘樫丘東麓遺跡その後の現地写真