嶋庄遺跡(蘇我馬子)の邸宅(2005年)

平成16年3月13日現地説明

   蘇我馬子の邸宅か

   七世紀前半の大型建物跡 明日香・島庄遺跡

  建物跡が見つかった七世紀の「嶋」地域は、天武天皇の後継指名を受けた草壁皇子が「嶋宮」を営んだことでも知られる。後の蘇我氏を滅ぼす中大兄皇子が屋敷を構えるなど、天皇(大王)家にとっても関わりの深い地域。重複する建物跡が何を意味するか、今後の論議を呼びそう。(草壁皇子=天武天皇と持統天皇の長男で、681年、皇太子に指名された。即位を間近に控えた689年に28歳の若さで亡くなり、万葉集には、柿本人麻呂や舎人(とねり)らの挽歌が収録されている。墓は高取町の束明神古墳が有力視されている。謀反の疑いで死罪となった大津皇子(持統天皇の姉の息子)は、皇位継承のライバルだったと考えられている) 飛鳥寺を建立して国内に仏教を広める一方、物部守屋との争いや崇峻天皇暗殺など、数々の権力闘争を主導した蘇我馬子。明日香村の島庄遺跡で見つかった建物群は、策略を巡らす舞台だったかもしれない。らつ椀の政治家、仏教受容の立役者か。人物像にも改めてスポットが当たりそう。

   馬子が父の稲目から大臣を継承し、政治の舞台に躍り出たのは敏達元(572)年、それから生涯を閉じるまでの約50年間、天皇の即位さえ左右する強大な権力を振るい続けた。見つかった七世紀前半の大型建物は、馬子の生きた時代に重なる。門脇貞二(京都橘女子大)は「当時の日本で方形の池は異質。先進的な文化を進んで取り入れた結果で、そのような平面プランを持てるのは馬子しかいない。同じ規格(方位)の建物跡が邸宅の一部だった可能性は十分ある」と話す。 仏教の導入で対立していた物部守屋を滅ぼし、豪族を纏める一方、東漢氏ら渡来系の氏族を率いて政権の中枢を担った。 門脇名誉教授は「隋との外交も馬子が主導したと考えられ、政治、外交、文化の全てに画期的な功績を残した。聖徳太子の名前で行われた政策も、馬子が作った可能性が高い」と見る。

   馬子の登場後、四人の天皇が即位、推古天皇(592〜628)の時代には、十七条憲法の発布や遣唐使の派遣など、国内外の情勢が目まぐるしく動いた。氏寺として建立した飛鳥寺に丈六仏(飛鳥大仏)を安置したのは推古17年(609)年、崇仏派の先駆けだった父・稲目の意志を受け継いだ。一方で、自ら擁立した崇峻天皇(587〜592)を暗殺するなど、血生臭いイメージも付きまとう。日本書紀よれば、イノシシを献上された崇峻天皇が「このイノシシの斬るように、自分が憎いと思う人間を斬りたいものだ」と発言したのがきっかけと言う。

 宝灯を伝える山本宝純住職(飛鳥寺)は「権力闘争も事実だが、異文化だった仏教文化を国内に定着させた立役者。その功績が十七条憲法へ受け継がれる。飛鳥文化は馬子を抜きに考えられず、これを機会に馬子像を見つめ直して貰えれば」と話している。 (奈良新聞・2004年3月12日)

このページのトップへ