飛鳥浄御原宮跡

  飛鳥京跡の大型建物跡    (奈良新聞3月9日)

  水田の50cm下は1300年前の宮殿だった。明日香村の飛鳥京跡で見つかった飛鳥浄御原宮の中枢施設は、日本の律令国家の基礎を築いた天武天皇の権力をほうふつとさせる。専門家も「これほどの石敷きは見たことがない」と驚きを隠さない。どのように使われた施設なのか。日本書紀の記録や、これまでの調査結果を絡めて論議を呼びそうだ。天皇の住まいでもあった内郭(内裏)は、南門を入ると前殿があり、三重の塀の向こうに今回の大型建物が聳えていた。床までの高さは推定約2m。石敷きの広さは「見上げる」という表現にふさわしい。

  橿考研は、内郭で最も重要な正殿級の建物と見ている。正殿や前殿は位置関係に基づく通称で、日本書紀に記された飛鳥浄御原宮の施設(殿舎)は大極殿、大安殿、内安殿など約30に上る。菅谷文則(滋賀県立大・考古学)は「斉明天皇の後飛鳥岡本宮を利用しつつ造営されたのが飛鳥浄御原宮。古い建物と新しい施設が共存していたのであろう」と、一方で「天武がこの建物に座っていたのは間違いない。日本書記の世界が目の前に現れたようだ」と話す。石敷きを巡らせた大型建物跡は、どの施設に当たるのか。天武十(681)年の正月に、親王や諸王を内安殿に招いて宴会を開き、諸臣は外安殿で酒を振舞われたという。二つの施設は対置関係にあったらしい。和田・京都教育大学教授(日本古代史)は「2mの高床なら、かなり高い建物。小苑池もついており、内安殿と見てよいのでは。外安殿は前衛だろう。身分の差が宮殿の構造にも表れている。石敷きには神聖性を際立たせる視覚的効果もあった」と見る。

  前殿を調査した河上邦彦(橿考研付属博物館長)は、砂利敷きと石敷きの違いに注目。前殿の周囲は神社のような砂利敷きだった。「砂利敷きの広場は走り難く、襲いかかろうとしても捕まえられる。ひざまずいても痛くなく、儀式用の施設だろう。今回の建物跡は石敷きで、天皇が皇子や重臣と相談するなど、具体的な政治を行う場所」と指摘する。「壬申の乱」に勝利した天武天皇が、律令国家へと足場を固め始めた時代。次の段階の藤原宮では、役人たちが政務をとる朝堂院が設けられ、国家的な儀式は大極殿で行われるようになる。内裏は天皇の純粋な生活空間だった。猪熊兼勝(京都女子大)は「飛鳥の宮殿調査の原点とも言える成果。天皇の生活空間と政治の場が同居し、未分化だったことが分かる」と話す。(奈良新聞)

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