壁画古墳・何故カビが?

 「高松塚」からのメッセージ

   曲がり角の文化遺産・明日香法25周年フォーラム

(主催:明日香村・関西大學・朝日新聞社、20051112日)

飛鳥美人は救えるか

 高松塚壁画は、あまりにも貴重な発見だったため、特別史跡の古墳から独立して、壁画だけが絵画の「国宝」に指定された。しかし、そのため古墳を所管する部局が文化庁に二つできてしまった。文化庁では、特別史跡は記念物課が所管し、国宝は美術学芸課が担当することになっている。

   高松塚・キトラ古墳の保存問題(関西大學名誉教授 網干 善教)

   研究者ら愛情を持ってくれ

   高松塚古墳と最初に関わったのは70年。明日香村の観光課職員に「高松塚古墳のすそに掘った穴から練り石(凝灰岩)の切り石が出て綺羅らしい」と聞き、それが石室に関係するものだと直感した。役場で自転車を借りて現場に急行し、石のスケッチをとった。
  まず学生らと古墳を測量し、文化庁の許可を得て、72年3月1日に発掘調査を開始した。19日に石室の一部にあたったが、20日は春一番の強風と大雨で作業は中断。21日の午後になって、盗掘穴から石室をのぞきこみ、壁画を発見した。
  私の先生で、当時奈良県立橿原考古学研究所長だった故・末永雅雄さんには、「この壁画は世界的な文化遺産だ。半年以内に報告書を出しなさい」と指示された。何度の徹夜でしてまとめたのが「調査中間報告」と副題をつけた「壁画古墳 高松塚」。収めた壁画のカラー写真は、今も様々な場所で引用されている。
  その本の序文で、末永先生はこんなことを書いている。学生には自分たちの発掘した古墳が、次第に遠ざかっていくことを悲しむ者もいるが、壁画の重要性を考えれば、管理を国へ移し、国が重厚な処置をとることが最も正しい、と。
  私も高松塚が文化庁の管理下に入って33年、壁画を直接目にすることは無かったが、国が責任を持って守ってくれると信じていた。しかし、その思いは裏切られた。
  昨年春、朝日新聞の記者に薄れた白虎の写真を見せられた。まさに晴天のへきれき。「むちゃくちゃや。どうなってるんや」と呆然とした。
  文化庁は、ずっと「壁画に大きな損傷はない」といい続けてきた。いまだに壁画の劣化が何時始ったのか、なぜカビが生えたのかなど、納得できる説明はないままだ。 それで「壁画を守るためには石室を解体するしかない」と言われて、納得できるわけがない。
  茨城県の装飾古墳・虎塚古墳は、73年の発掘以来、同じ研究者が現在まで守り続けてきた。今、高松塚古墳の保存に関わっている研究者らは、あまりにも事務的に仕事をしているように感じる。 国民から預かった文化財は愛情をもって守っていくべきではないか。

(2005年(平成17)11月21日、朝日新聞)

 奈良県明日香村に所在する壁画古墳高松塚・キトラ古墳の特別史蹟の保存を巡っていま大きな議論を呼んでいる。その経緯について概略を述べておこう。

 わが国で最初に本格的な壁画古墳が検出されたのは19723月の高松塚古墳であった。この調査は主として関西大學考古学研究室の諸君の参加があって実施されたことは周知である。

 古墳の墳丘の一部に凝灰岩切石が見えているとの事実を確認して直後の1970(昭和45)年1021日から4日間、関西大學の学生らが古墳の測量調査をいった。(中略)321日横口式石槨内に壁画が描かれていることを確認した。参加学生諸君をはじめ、関係者は感激にひたり、その後現地で作業は冷静に進められた。

 高松塚古墳については当事者として特別な感情を抱いていることは確かである。調査から半年後の11月、「壁画古墳高松塚――中間報告」が出版された。その報告書の序文に関西大學名誉教授であり、高松塚古墳の調査責任者である末永雅雄先生は次の如く記されている。

「調査参加学生の手記を見ると発掘の努力を重ね、これを愛し、調査を続けたが、次第に自分たちから遠ざかってゆく悲しみを書いたものであった。それほどにまで高松塚古墳を愛する感情をもって努力してきたかと驚いた。いまこれを書きながらもなお胸がつまる」

 高松塚古墳の調査についての処置の決断は以下の文章によって知ることができる。

  「日本文化史上に大きな寄与をなした、この偉大な資料を個人的財産とは異なるを考えれば、すべてを挙げて国家処理に移し、保存と調査研究の万全を期して、次代の日本国民に伝えるべきである。いや世界における人類文化史の重要資料の一つとして保存すべきあって、学生の言う通り高松塚古墳は4月5時点をもって、我々からも遠ざかりつつあることを感じる。所員全体のもつ思いも同様である。しかしながら高松塚古墳と言う重要資料を高所よりこれを見、これを考えるとき、我々はここにいさぎよく国へ移し、国は重厚な処置をとって悔いなき方策を立てられることが、最も正しいと私は判断した結果の処理である。」

と所信を披瀝されている。その後文化庁に、「高松塚古墳総合学術調査会」が立ち上げられた。その第一回の現地調査に立ち会わされた先生は、同報告書で「壁画の存在を確認して」という項で次のように記している。

   「昭和479301030分、高松塚古墳の開封が解かれると共に私が半年間安否を懸念しつつけて来た壁画は再び鮮やかな、かつ艶やかな飛鳥人が電灯に照らし出された。(中略)この日をもって高松塚古墳壁画の出現以来、保護・保存を第一とした私の責任は解消された。(中略)特に唯一の法隆寺壁画を人災で失ったわが国における至宝であるこの高松塚古墳を損傷することがあってはならない。(以下略)

 それから約30年が経過した。文化庁が責任をもって高松塚古墳を守ってくれている私たちは思っていた。この間に文化庁は石槨の全面に大きな保存施設もつくった。そして説明板に壁画は保存されていると書いてあった。だから誰もがそう信じていた。

 ところが最近分かったことだが、あの石槨の前の施設は高松塚古墳の壁画を直接守る為に造ったものではないという。内部点検に入る人たちが菌を持ち込まないためであるという説明であり、唖然とした。それだけの施設を作ったのにカビだらけである。キトラ古墳も同様である。防菌のための立派な施設をつくったにも関わらずおびただしいカビの被害が出ているという。

 一体何のために、何の研究をして、そのような施設を作ったのか。若し役立っていないとするならば浪費であろう。

 キトラ古墳やマルコ山古墳の発掘が話題になっていた日の夜、文化庁が出版した「国宝 高松塚古墳壁画」を朝日新聞橿原支局の大脇氏が持参し来訪された壁画の写真について意見を求められた。それを見た途端鳥肌の立つ思いになった。殆ど見る影もなくなった白虎の壁画、30年前のあの鮮やかな姿は色もあせ、形もよく見えないほど劣化している。まさに青天の霹靂である。末永先生はこの壁画の保存について国家にゆだね重厚な処置をとり、悔いなき方策をたてられることを願われて文化庁に移管された筈である。序文の中で「高松塚古墳を損傷するようなことがあってはならない」と強調された。「痛恨の極み」であり、「断腸の思い」でもある。

 発掘以来約30年間、私たちは壁画に関しては一切知らない。何故このようになったのか、その間どのような処理をしたのかも知らない。ただ、新聞やテレビの報道によって見る程度である。

 これに関して一切の責任は文化庁にないといっているらしい。

文化庁の発行した「高松塚古墳壁画」の報告書をみると、その序言のなかに、「文化庁長官 河合 準雄」の名で「幸い30年を経ても壁画は大きな損傷或いは褪色もなく保存されています」と書いてある。

 そして本を開いてみると、褪色して見る影もなくなった写真が何頁にも収録されているではないか。そのような写真を掲載して、どうして30年間何の損傷もなく褪色もなかったといえるのだろうか?

(網干名誉教授の講演資料・関西大學博物館報より抜粋)

  高松塚は日本だけでなく、東アジアにとって貴重な文化遺産だ。小さな円墳の中に見事な壁画があった。小古墳のなかにも、非常に大事なものがあるということを教えてくれた。
  71年高句麗の好太王碑文が旧日本軍に改ざんされたという説が大きな反響を呼んだが、そこに高松塚の発見が重なり、韓国や北朝鮮、中国を巻き込んで古代史や考古学の国際シンポジュウムが相次いで開かれた。それを契機に東アジアの中の日本、という視点の研究が急速に進んだ。
  唐だけでなく、新羅や高句麗からどんな文化がもたらされたのかを検討することが、キトラや高松塚の壁画の意味の解明につながるのでは。
  
  文化財の保存は放置や凍結ではない。公開・活用しなければ本当の意味での保存はできないと思う。観光と言う言葉は中国の古典の「易経」が出典だが、「国の光を観る」という意味がある。文化財も、すべて東京に集めて公開しても意味は無い。まず現地で公開することが大切だ。



「国の光」現地公開が大切

京都大学名誉教授・考古学
  石室丸ごと移動も検討を!

  最近の文化財行政では、縄文や弥生時代の大規模な遺跡を保存整備し、公開していく傾向がある。観光振興にもつながり、遺跡の保存を考える上で非常に望ましいことだ。
  本来、遺跡は元の位置にあってこそ意味があると思う。高松塚で壁画が劣化し、
石室の解体が決まったことは、保存科学を専門とするものとして言い訳できない。
  しかし、キトラ古墳の壁画の剥ぎ取りでは、壁画の顔料を全く動かさずに剥がす技術も確立された。高松塚ではこうした技術で壁画を保護し、せめて壁材を一枚ずつ外すのではなく、石室を丸ごと移動させることも検討して欲しい。

 筑波大学教授・保存科学
 
   保存科学で最善を尽くせ!

  高松塚が発見された時、私は高句麗の壁画古墳の本を翻訳中だった。韓国や
北朝鮮の研究者が来日した際には通訳兼案内役を務め、彼らの後ろから高松塚の壁画を垣間見た。青っぽく照らされた壁に、青竜や白虎が浮き上がっていたのが印象的だった。
  北朝鮮の壁画古墳も、十数年前に見る機会があった。事前に写真を見て何処にどの絵があるかも頭に入っていたが、実際に古墳の中に入ると印象はまるで違った。その感動は実物を見た者にしか分からないだろう。
  高松塚壁画は東アジアの中でも重要なものだ。これ以上悪化しないよう対策を考え、できるだけ早く公開できる場を作って欲しい。


  NPO法人国際文化財調査研究所長・考古学
  明日香村には感動がある!

  私は関西大學の2回生の時、高松塚の発掘に参加した。調査が認められたのは、当時、明日香村史の編纂が進んでいたため。それでも付いた調査費は50万円。
 今なら一日分だろう。石室の調査は殆ど2日で終わった。興味本位で調査を長引かせれば、壁画が傷むと判断したからだ。網干先生の禁欲的な姿勢に感銘を受けた。
  高松塚古墳が地方の文化財行政に与えた影響は大きい。どんな小さな古墳からでも、全国を驚かせる発見があるかもしれないと教えてくれた。
  コンクリートのような硬い墳丘の土を掘り、黙々と記録を取った者として、あの絵が朽ち果てていく様子を見るのは涙が出る思いだ。よい対策を皆さんと考えたい。

  兵庫県芦屋市教育委員文化財担当主任・考古学

   

    消えた飛鳥美人

   奇妙な写真集の出版

 高松塚の壁画がそんな状態になっているとは一般の国民は誰一人として知らなかった。文化庁が発見以来30年以上にわたって、壁画には大きな異常は見られないと発表しつづけてきた。

 特に壁画発見30周年記念事業として昨年、文化庁が監修して出版された写真集「国宝 高松塚古墳壁画」の序言には、河合 隼雄・文化庁長官が、「幸い、30年を経ても壁画は大きな損傷或いは褪色もなく保存されております」と書いてある。(解体の直接の原因であるカビの大発生は2001年である)

   常識的に考えると、これは「隠蔽工作」に当たる。

 しかし、隠蔽工作にしては奇妙なことがある。この写真集は序言で「大きな損傷或いは褪色もなく」と事実と異なることを書きながら、掲載されている写真は事実そのもの、つまり大きく損傷し褪色していることが一目瞭然だったのだ。

 網干名誉教授は「、、、もともと橿原考古学研究所が発掘した古墳ですが、これほどの宝を一地方の研究所で管理してはいけないというので、断腸の思いで国に引き渡したのです。しかし、それ以来、文化庁は一度も相談にも来ないし、連絡もしてきませんでした。、、、、、問題はありませんという発表を信じるしかなかったのですが、本を開いて、こりゃ、なんちゅうこっちゃ!と思いましたよ。」

 文化庁が本気で壁画の劣化を隠蔽したいのなら、こんな写真集を出さない方がよかった。

   真実を公表するために

 そこで、写真集を企画・編集した当時の主任調査官、林温慶応大学教授に出版の経緯を尋ねてみた。「大きな問題はありません」と答えた当人である。

 「あれはつらかった、、、、。私は個人的には問題があると考えていました。しかし、私も文化庁という組織の人間です。うっかり個人的な意見を述べると、それが文化庁の公式見解だと受け取られることもあります。我々は研究者の世界から技官として文化庁に入って公務員になるのですが、そのとき、「君が学問をやるのは構わないが、仕事でやっている部分については個人の意見を出してはいけない」と言うことを言われているのです。ですから、課としての見解が「問題なし」であれば、そう発現するしかないのです」

 林氏に壁画に問題があると気付いたのは何時かと問うと、平成9年(1997)、25周年のときからだと言う。

 河合長官の序言について、林氏はこう話す。

 「河合長官は心理学の専門家で、壁画のことは当然、詳しくはご存じない。あの文章は私が下書きして、課長がチェックして長官に提出したものであう。課長として提出する以上、当然、これまで通りの課の見解を書くことになります」。 しかし、序言と壁画の状態は明らかに矛盾しているのだから、いずれ河合長官にも批判が向けられることは十分に想定できたはずだ。「真実を国民に知ってもらうには仕方がないと思いました。、、、長官にご迷惑をかけたことは、大変申し訳なくおもいます」

 この写真集は、現場の長官が「課の見解」という障碍を乗り越えて、国民に真実を公表するために仕掛けられたものだったのです。

   課長になると人が変わる

 昭和55年のときは上司の意向で公表できなくとも、後任として平成元年から平成3年まで課長の地位にあったとき、壁画の状態に問題意識があったのなら、そこで公表することもできただろう。

 課長曰く、「私の課長時代はカビが殆ど発生しない安定期でした。それに、、、、

他のことが忙しくて、忙しくて、ついに体を壊してしまいました」。この調査官次代、高松塚周辺にはまだ交通機関が整備されておらず、自動車の使用する予算もなく、自費で中古自転車で宿舎と古墳を往復していた、涙ぐましい努力で壁画を守ろうとしてきた。そのことは高く評価されるべきだし、安定期に入ってほっと気がぬけたのもわかる。

 しかし、この課長時代に情報公開しなかったことで、氏自身が調査官時代には疑問を感じていたそれまでの方針が以後も踏襲され、歴代課長が、関係者以外はその存在を知らない本を持って「情報公開」はなされたとして、「問題なし」で押し通すような、おかしな理屈が定着したのである。

   縦割りの体質がカビを発生させた

 石室を解体しなければならないほど高松塚壁画の状態が悪化したのは、2001年に大発生したカビの影響である。

 平成元年から長い安定期に入ったと思われていた石室が、突然、カビに覆われたのは、自然現象ではなく、お役所の縦割り体質がもたらした人災である可能性が高い。

  高松塚壁画は、あまりにも貴重な発見だったため、特別史跡の古墳から独立して、壁画だけが絵画の「国宝」に指定された。しかし、そのため古墳を所管する部局が文化庁に二つできてしまった。文化庁では、特別史跡は記念物課が所管し、国宝は美術学芸課が担当することになっている。

 その上、保存や修復の実務を担当するパートナーも、古墳は主に西日本に分布しているため、記念物課が、奈良文化財研究所(奈文研)、美術学芸かは東京文化財研究所(東文研)と言う風に、慣行上の棲み分けが行われた。

 20012月に文化財の記念物課は20日にわたって高松塚古墳の天井部分を修理した。天井(取り合い部)とは石室と外部の施設をつないでいる空間で、ここの天井が時折崩壊して土が下に落ちてくるので、それを止めるための工事である。これは古墳そのものの修理に当たるので、記念物課と奈文研が担当した。

 しかし、カビの被害で悩まされ続けた美術学芸課=東文研と違って、記念物課=奈文研はカビ対策をそれほど重視していなかった。そして工事終了後の3月、美術学芸部=東文研のコンビが定期点検に訪れたとき、すでに取り合い(天井)部には大量のカビが発生していたのである。

 原因は天井工事に使用した樹脂が疎水性のものであったことのようだ。疎水性の樹脂は水をはじくため、水滴ができやすい。実際、翌年に美術学芸部の主導で行われた再工事では親水性の樹脂に土を混ぜて天井部に張ったところ、カビの発生は止まった。

 これではとても石室の扉を開けるわけにはいかないというので、美術学芸課=東文研が必死の駆除作業に入るが、結局、9月の段階でもカビは駆除できなかった。

 定期点検は前年の春におこなったきりで、一年半も石室内部の状態は分かっていない。不安になった主任調査官が、この時点で扉を開けてみたところ、壁面全体にこれまでに見たこともないほどのカビが大量に発生していたのである。

 これについて現在、二つの原因が考えられている。

第一は、これまで一年に一度、バラフォルムアルデヒドによる燻蒸を行うことでカビの発生を抑制する効果を挙げてきたが、一年半できなかった間に効果が薄れ、カビが発生してしまった可能性。

次に、東文研の佐野千恵・生物室長によると、「胞子の状態のカビは空気と同じ動きをします。石室は密閉されているといっても、全体としては二、三平方センチの穴が開いているのと同じくらいは空気の出入りがあります。取り合い部(天井部)からカビが侵入した可能性があります。

 いずれにせよ、記念物課と美術学芸課のコミュニケーションが取れていたら防ぐことができたと思われる人災です。

  長官はただのシャッポ

 考古学界の重鎮、森浩一・同社大学名誉教授は文化長官の責任を問うべきだという。「序言は長官本人が書いたものでなくても、それで許されるものではない。文化庁長官として公に発言し、結果としてその発言が国民を騙していたという責任はあまりにも大きい。早急に責任を取るのが筋だろう。河合さんが責任を取ったからといって解決する問題ではないが、あまりにも責任の所在をはっきりさせない行政の体質に、一石を投じることにはなる」。

 そこで、文化庁の河合長官の取材を申し込んだ。すると、誠に奇妙な理屈を聞かされた。「民間から来ていただく長官には対外的に文化を広めるといった役割を果たしていただき、行政事案は次長以下が対応することになっています。ですから、国会でも答弁は次長が行うことが認められています。高松塚の件は行政事案ですので、我々が対応します」(美術学芸課)

 古墳研究の第一人者・大塚 初重・明治大学名誉教授は、解体に強く反対して「残念ながら壁画はもう死に体だとおもいます。ならば、もうこれ以上触らずに、もう一度元のように埋めてしまうことです。古墳を元の形に戻して、それを21世紀の失敗として残せばいい。文化庁や考古学者たちの反省として残せばいいんです。そして改めて遺跡というものの概念について問い直すことです。私たちには、もうそれくらいしかできることはありません」

(消えた飛鳥美人=200510月号、「文芸春秋」抜粋)

二つの白虎 思い重ね!

2006/05/10  朝日新聞)

 高松塚の発掘関係者、34年ぶり「再会」

  キトラ古墳の「白虎」公開を感慨深い思いで待つ人たちがいる。

 83年の同古墳壁画発見より11年前、高松塚古墳の発掘に参加した関西大学の元学生ら。

  高松塚の白虎は非公開のまま劣化。瓜二つとされるキトラの白虎公開に「再開」への思いを重ねる。

  「絵師の心意気感じたい」

  「発見当初は鮮やかで美しかった高松塚壁画と、キトラの白虎はどう違うのか。自分の目で確かめたい」兵庫県芦屋市教育委員文化財課主査、森岡秀人氏は期待を込める。

(明日香法25周年フォーラムより)

  高松塚の発掘には、網干善教関西大学名誉教授(当時、助教授)らの指導で学生が参加した。2回生だった森岡さんは発掘の詳細を大学ノート約40冊に記録した。

  調査開始から21日目。20cmほど開いた盗掘穴から石室の中を覗き込んだ3回生の学生が声を上げた。「石室の壁が何時もの古墳とは違います」。壁画だった。 森岡さんも覗いた。西壁の男子像の、鮮やかな緑青色の衣装が目に這い入った。その奥に白虎も見えた。

  小柄な女子学生が選ばれて石室に潜り込み、内部の様子をリポートした。「壁には漆喰が塗られ、その上に絵が描かれています。動物は中央に白いトラ、その上に月にむら雲、、、、、、」その言葉を聞き取ってメモした。

  その後、森岡さんらも交代で石室に入る機会を得た。「状態はしっかり壁に粘着している感じで、(キトラのような)壁からの浮き上がりやひび割れ、黒ずみやカビはなかった」

  調査終了後、石室は密閉された。壁画修復のために度々開封されたが、森岡さんら当初の発掘関係者は以後、34年間、一度も壁画を見ていない。

  その間に壁画の状態は激変。白虎は退色し、線が消えかかるなど激しく劣化したことが04年に刊行された文化庁監修の写真集で明らかになった。「無念でならない」という。

  高松塚とキトラの白虎は左右逆向きだが、同じ原画を元に描かれたとも推測されるほど良く似ている。キトラの白虎について森岡さんは、「開封時には壁から外れ既に危ない状態だった。剥ぎ取りは結果的に正解」とみる。

 そして、「白虎の線を一筆一筆まで見て、写真では分からない絵師の心意気を感じたい」と話す。

  

2006/05/11, 朝日新聞)


(朝日新聞、2006年・平成18年5月13日)

高松塚・キトラ壁画にシミ・穴

飛鳥美人は救えるか

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