十干十二支 

十干十二支 

 じっかんじゅうにし 古代中国で考案され、東アジアの漢字文化圏で年・月・日や時刻、方位、順序などをしめすのにもちいてきた文字記号群。略して干支(かんし)、日本では「えと」ともいう。「干」は幹、「支」は枝と同音同義とみなされ、十干は甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊()・己()・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸()、十二支は子()・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳()・午()・未()・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)。なぜこれらの文字がえらばれたのか、その配列順がどのような理由によるのかは不明である。

十干十二支

左は十干と十二支をくみあわせた六十干支表、右は十二支によって方位と時刻をあらわしたもの。

中国における起源と発展

1  日をあらわす方法として

中国の河南省安陽市付近にある前13〜前11世紀ごろの殷墟からは、十干と十二支をくみあわせた六十干支表や、「癸巳(の日に)(ぼく)して…」などと干支で日付をしめす甲骨文( 甲骨文字)が出土し、すでに干支がつかわれていたとわかる。

殷では1カ月を3分して旬(じゅん)とし、殷王は旬末に次の旬の吉凶をうらなったが、十干は1旬の10日それぞれにあてた記号であったとみられる。この十干それぞれに「枝」にあたる十二支をくみあわせて、漢字2字からなる序数詞として日をあらわしたわけだが、十干と十二支を順次くみあわせれば120通りになるところを、一定の法則によって60通りにおさえたのは、一巡120日では長すぎると考えたかららしい。

2  年をあらわす方法として

干支で年次をあらわすことは戦国時代(452〜前221)に例がみられる。漢の武帝の太初元年(104)に施行された「太初暦」で、同元年を丙子とし、のちに丁丑にあらためられて以後は、60年ごとのサイクルをくりかえして今日までつづいている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮・日本とも共通で、たとえば日本の甲子園球場は、完成した1924年が甲子の年にあたることからの命名である。

各自の生まれた年の干支は、満60歳になる年にふたたびもどってくるが、これにちなんで「還暦」または「本卦(ほんけ)がえり」とよばれる年祝いがおこなわれる。

3  月をあらわす方法として

12カ月の各月に十二支をあてて、たとえば11月を子月、12月を丑月、1月を寅月と称することは漢代以前からおこなわれていた。これに干名をくみあわせて干支で表現する方法は唐代ころにはじまったが、この方法はあまり一般化しなかった。

4  時刻・方位への使用

漢代には、1日を12等分した時刻を十二支名でよぶようになった。たとえば現在の午前11時から午後1時までの2時間は「午」であった。午前12時を「正午」、それより前を「午前」、あとを「午後」とよぶのは、この名残である。

また、このころ方位も30度ずつに12等分して十二支名をあてることがはじまった。

「えと」と十二支像

十干は戦国時代には、陰陽五行説にむすびつけて考えられるようになる。十干それぞれが陰と陽にわけられて、木・火・土・金・水の五行(5元素)に、甲乙、丙丁、戊己、庚辛、壬癸と、それぞれ陰陽1対の干名があたえられた。

日本では、陽は兄()、陰は弟()であるところから、木・火・土・金・水の訓読みとあわせて、木?甲(きのえ)(きのと)、火?丙(ひのえ)(ひのと)、土?戊(つちのえ)(つちのと)、金?庚(かのえ)(かのと)、水?壬(みずのえ)(みずのと)、と呼称されるようになった。

このように「えと」は本来は十干のことであるが、やがて、十干十二支、あるいは十二支にあてはめた動物に対しても、混用してつかわれるようになった。

十二支には、子?鼠(ねずみ)、丑?牛、寅?虎(とら)、卯?兎(うさぎ)、辰?竜、巳?蛇、午?馬、未?羊、申?猿、酉?鶏、戌?犬、亥?豕(いのしし)として、十二支像とか十二支獣とよばれる動物が配当された。新しい年が子年なら年賀状には鼠がいっせいにえがかれるなど、日本人にはしたしい存在となっている。

いつ、どのような理由でこれらの動物がえらばれたかは不明だが、湖北省の秦墓出土の竹簡には、現行とほぼ同じ動物があてられている。また西方天文学の黄道十二宮( 黄道帯)が各宮の多くを動物であらわすことから、両者の関連も考えられている。なお十二支の漢字には、配当される動物の意味はなく、たとえば子に鼠の意はない。

日本の干支

1  紀年法などの受容

干支の日本伝来時期はわからない。埼玉稲荷山(さきたまいなりやま)古墳(行田市)出土の鉄剣銘に「辛亥年七月中記」とあり、銘中の「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が雄略天皇と考えられるなどのことから、この辛亥は471年説が有力である(531年説もある)

「日本書紀」が伝説上の人物である神武天皇の即位年を「辛酉年」としるすのは、辛酉年には「革命」があるとの中国での説をあてはめたものと考えられている。この架空年次は、西暦紀元前660年にあたる辛酉年として「皇紀」元年とされ、太平洋戦争敗戦まで歴史的事実としてあつかわれていた。

また、十二支で時刻や方位をしめすことも採用され、一般化した。平安時代の「延喜式」は、宮中諸門の開閉、日の出・日の入りの時刻を「申四刻六分」などと記している。同時代の方位の例としては、喜撰法師の「わがいほは都の辰巳しかぞすむ世を宇治山と人はいふなり」という歌が、百人一首にはいってよく知られている。

2  干支と年中行事

特定の十二支の日には、年中行事などがおこなわれる。子の日に例をとると、中国の周・漢代には、正月最初の子の日には天子が鋤(すき)でたがやし、皇后が箒で蚕床をはらい、祖先神や蚕神をまつったという。日本でも奈良時代にはおこなわれ、正倉院には使用した鋤と箒が伝存する。この正月初子(はつね)の日に、山野にでて若菜をつみ、若松をひいて長寿をねがう「子の日の御遊び」は、平安朝貴族の楽しみであった。また、子すなわち鼠は大黒天の使獣と考えられたところから、江戸時代には、子の月(11)の子の日に大黒天の「子の日祭」が各地でおこなわれた。

「丑の日」では、土用の丑の日に鰻(うなぎ)を食べるとか、寒中に製した紅は質がよいとして丑の日に「丑紅(寒紅)」を売るなどの習わしがある。ほかに、2月の「初午」は稲荷の祭り、10月の亥の日の「亥の子餅」、11月の酉の日の祭礼、また庚申の日の夜の「庚申待ち」なども、よく知られている。