飛鳥京跡第153次調査・2005年度現地説明会

  

明日香村飛鳥京153次調査

現地説明会資料資料(2005312日)


調査機関

奈良県立橿原考古学研究所

所在地

高市郡明日香村岡

調査原因

飛鳥正宮の学術調査

調査面積

約900u(平米)

主な遺構

大型建物、池状遺構他

現地説明会

3月12日(土曜) 午前10時〜午後3時  

   1.はじめに
   飛鳥京跡は、明日香村岡に位置する宮殿遺跡です。舒明・皇極・斉明・天智・天武・持統の5人6代の天皇(大王)の宮が置かれたといわれます。飛鳥京跡では、遺構は、大まかにT期(舒明の飛鳥岡本宮 630年〜)、U期(皇極の飛鳥板蓋宮 643年〜)、V期(斉明・天智の後飛鳥岡本宮 656年〜、天武・持統の飛鳥浄御原宮 672年〜)に区分できます。今回の調査は、飛鳥正宮の学術調査事業として、V期の内郭中枢の建物配置とT・U期の宮の構造解明を目的に2003年度から実施しているもので、その2年目にあたります。 昨年度の調査では、大型建物の一部とその南にひろがる大規模な石敷広場、池状遺構がみつかりました。今回は大型建物の規模と池状遺構の全容解明、建物の東側の様子を明らかにするために2004年11月から約900uを対象に発掘調査を実施しています。

2.発掘調査の成果

    今回の調査は、昨年に続いて内郭のほぼ中央で実施しました。そして、掘立柱建物、掘立柱塀、石敷広場、石組溝、池状遺構などを検出しました。そのほとんどがV期(後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)に存続していたものです。
 建物1は、内郭の主軸線上で検出した大型の掘立柱建物です。東西8間(約24m)、南北4間(約12m)、南と北に庇をもつ切妻建物です。柱間間隔は約3m。建物の内部には床束があり、高床建物であったことがわかります。建物の北と南には、雨落溝を兼ねた東西方向の石組溝があります。建物1は、飛鳥京跡の中では、内郭の前殿(東西7間、南北4間)よりも一回り大きく、エビノコ郭正殿(東西9間、南北5間)につぐ規模をもちます。
   建物1の東では、南北棟の建物2を検出しました。柱穴を二つ検出しただけですが、これまでの調査から、南北4間(約12m)、東西2間(約6m)に復元できます。柱間間隔は約3m。柱筋を建物1に揃えています。建物1と2とは、梁間2間(約6m)桁行2間(約5.4m)の廊状の施設でつながっています。建物1の西では、北に建物3、南に池状遺構を検出しました。建物3は、南北1間、東西3間以上の床をもつ廊状の建物で、柱間間隔は約3m。柱筋は建物1に揃えています。建物1とは掘立柱塀で接続しています。なお、建物3は、南北1間の掘立柱塀に建て替えられています。
   池状遺構は、浅い窪みに州浜状に砂利を丁寧に敷き詰めたもので、汀線に出入りがあり、「曲池」と呼ぶに相応しいものです。なお、池状遺構はV期以前につくられた可能性がありますが、何らかのかたちでV期に継承されたと考えられます。
 また、建物1の四隅では、二本の南北石組溝で区画された幅3mの石敷がみつかりました。それぞれほぼ中央に大きな抜き取り穴があり、建物1を荘厳にする装置であったと推定します。
   ところで、建物1〜3、池状遺構などは、北と南を東西の石組溝によって区画されています。これらが互いに関連しあって、ひとつの空間を形成していたとみられます。そして、この空間の南には、人頭大の石を敷き詰めた石敷広場がひろがります。建物1・2などと対となって儀式などがおこなわれた空間(庭)と考えられます。

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   3.まとめ
   飛鳥京跡の内郭中枢の調査は、最初の2年の調査が終了したにすぎませんが、ほぼ内郭中枢の建物配置を復元することが可能な成果をあげることができました。
   すなわち、内郭の主軸線上、前殿の北には、前殿よりも規模が大きい建物1が位置していました。そして、その東には南北棟の建物2が配置され、建物1とは回廊状の施設でつながり、向かい合う関係にありました。また、建物1の西では、北に東西棟の建物3、その南に池状遺構がありました。そして、これらの空間の南には、大規模な石敷広場がひろがっていました。
   ところで、建物1は、内郭の中軸線上に位置し、前殿よりも一回り大きい建物でした。東西規模が8間という偶数間であること、また、切妻建物であること、さらに今回の調査区の北に若干の未調査区を残しており、そこに、さらに大型の建物が存在する可能性がまったく否定できないことなど、いくつかの問題点を残しますが、建物1やその南にひろがる石敷広場の規模を考えると、内郭の中心建物、内郭正殿の可能性がより強くなりました。また、建物2は規模の小さな建物ですが、建物1と向かい合うように配置されていました。建物1と一体となって使用される特別な建物であったのではないでしょうか。
    2年にわたる調査で、内郭中枢の建物配置やその中心建物の規模や構造が、ほぼ明らかとなりました。そのいっぽうで、多くの新たな問題も生まれました。今後、様々な議論を呼ぶことと思われますが、このことは、古代宮都を研究していくうえでも、飛鳥時代の政治形態や王権を考えていくうえでも、きわめて大きな意味をもつものと考えます。

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<飛鳥京跡>正殿の全容明らかに 天皇の私的空間に迫る資料  [ 03月08日 21時10分 ]

毎日新聞社  

  飛鳥時代の宮殿跡が重なる飛鳥京跡(奈良県明日香村)で、7世紀後半の内裏にあった中心建物、正殿の全容が明らかになった。8日発表した県立橿原考古学研究所によると、東西23.5メートル、南北12.4メートルと大規模で、日本書紀に天武天皇が宴を催したと記される「内安殿(うちのあんどの)」と「向小殿(むかいのこどの)」にあてる説などが浮上。律令国家形成期の天皇の私的空間の実態に迫る資料となる。

 斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656〜667)とそれを再利用した天武、持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672〜694)の建物とみられる。西にも形の違う建物がある左右非対称の特異な構造で、橿考研は「中国の宮殿は左右対称が原則。日本古来の伝統を残しているのでは」としている。

 柱穴の配置から正殿は東西8間、南北4間。南北両面の端近くにそれぞれ2カ所、昇り段と扉があり、石組み溝で区画されていた。東側に長さ5.4メートル、幅6.2メートルの渡り廊下があり、別の建物と接続。橿考研は天皇専用の通路とみている。

 正殿の四隅に柱穴を確認。続日本紀に、藤原宮で玄武や白虎などの「四神旗」を立てた記述があり、同様の宮廷儀式が既に始まっていた可能性もある。

 日本書紀は、天武天皇が律令の制定を命じた681(天武10)年正月のくだりで「天皇、向小殿に御しまして宴したまう。親王・諸王を内安殿に引き入れ、諸臣は、皆外安殿に侍り、共に置酒して楽を賜う」と、宴の様子を記している。

 【中本泰代、山成孝治】