飛鳥京・藤原京

  飛鳥京・藤原京(小沢 毅著、於・2004328日「古代のみやこ」古代史博物館)

    豊浦宮と小懇田宮

  592年12月、群臣の推挙を受けて、推古天皇は豊浦宮に即位した。以後、694年12月に持統天皇が藤原京に移るまでの約100年間の宮殿は、この周辺に集中することになる。いわゆる飛鳥時代である。それに先立ち、蘇我馬子は、588年に飛鳥寺(法興寺)の造営を開始した。蘇我氏自らの勢力圏内に氏寺を造営し、その一員である推古の宮を置いたことが、飛鳥時代の開始を告げたのである。

    飛鳥諸宮

  飛鳥寺に南方の「史跡伝飛鳥板蓋宮跡」一帯には、宮号に「飛鳥」を含む飛鳥岡本宮(630〜636)・飛鳥板蓋宮(643〜655)・後飛鳥岡本宮((656〜672)・飛鳥浄御原宮(672〜694)の4宮が営まれた。ここは、飛鳥寺以南における最大の平地空間であるとともに、飛鳥寺が建つ下段の段丘面に比べて高く、宮殿として良好な立地条件を満たしている。

   飛鳥板蓋宮

  642年9月、皇極天皇は、遠江から安芸にいたる地域に動員を命じて飛鳥板蓋宮の造営を開始し、翌年4月に、新造なった宮である。板蓋宮という宮号は、屋根材料に基づく特異な命名であり、屋根の葺き方がそれまでと大きく異なったことをうかがわせる。これ以前の宮殿の屋根は草葺きであったのだろう。ちなみに、当時は縦挽きの鋸がなく、板を作るには、素性のよい太い木材をくさびで割る必要があった。板蓋宮という名は、豪華な厚板で屋根を葺いたことに対する感嘆からきたものである。

   後飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原宮

  後飛鳥岡本宮は、飛鳥板蓋宮が火災に遭ったため、それに代わり斉明天皇(皇極)が656年に再建した宮殿である。彼女の死後は、中大兄皇子(天智天皇)が政務をとることになったが、667年3月の近江遷都までの間は、この宮が使用されたと見てよい。天智の死後、壬申の乱の勝利によって皇位を継承した天武天皇は、672年9月に一旦嶋宮に入った後、3日後に「岡本宮」に移っている。後飛鳥岡本宮がその時点で健在であったことが伺え、飛鳥浄御原宮はこれを継承しつつ拡充・整備した宮殿と考えられる。

   藤原京成立の意義

  694年12月、持統天皇は飛鳥浄原宮から藤原宮に遷った。以後、元明天皇が710年3月に平城京へ移るまで、ここが我が国の政治の中枢として機能することになる。藤原は、東西928m、南北907mという、宮殿としてはかつてない面積を占め、そこに内裏や大極殿・朝堂などの中枢部や、大垣に開く宮城門は、礎石上に建つ瓦葺の建物となる。こうした大陸風の建築を宮殿に導入したのは、藤原宮が始めてであり、それらは当初から、天皇の代を越えた恒久的な施設として建設された。藤原宮は、建築構造のみならず、方形の宮域に様々な施設を計画的に包括した点でも、宮都の歴史上、画期的な存在といえる。それは、天皇を頂点とする律令国家の権威を示す象徴でもあった。又、大極殿そのものは、飛鳥浄御原宮で新設されたと考えられるが、原則的に天皇の独占的空間としての大極殿とそれを取り囲む一郭は、藤原宮で初めて成立する。そして、臣下の座である朝堂は、その前面に、広大な区画として設置された。以後、平城宮・平安宮まで共通する12の朝堂をもつスタイルは、藤原宮に始まるのである。しかし、それにもまして重視されるのは、宮の周囲に広大な京域を伴っていたことであろう。藤原宮を最初の都城と位置づける理由は、まさにこの点である。  最初に仏教文化が開花した飛鳥には、多数の寺院が存在したが、その北方に広がる藤原宮の建設にさいして、基本的に寺地の移転は行われていない。藤原宮内の寺院は、何れも京の造営前からその地に存在したか、京の造営と並行して、あるいは造営後に新造されたものである。

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