ブナ帯の専業的山棲み―7

 ブナ帯の狩猟民(マタギ・鷹使い)

 厳しいマタギの戒律

 マタギは、東北地方のブナ帯山間部に散在するマタギ集落に暮らし、ブナの森を猟場として、共同で主に大型獣であるクマ、カモシカ猟を行う専業的狩猟民であった。

(“マタギ”は東北人の発音で“マダギ”と呼ばれる)

 マタギが、平野部の単なる鉄砲打ちと異なったのは、山ノ神を信仰し、山へ入ると里言葉を避け、独特の山言葉(狩詞、マタギ詞)に切り替え、唱え事や呪言葉の秘事をもち、厳しい戒律を守って、特有の猟法で集団狩猟した点にある。更に彼らは、獲物は山の神の授かりものとし、定まった作法で解体儀礼を行い、その霊を慰めた。

 統率者ともいえるシカリは、必ず山ノ神への供え物であるオニオコゼの干物と、彼らの精神的支えであり、藩界越境の許可証ともいえる秘巻を持参した。

 彼らは山入りすると、それらを狩小屋(マタギ小屋)の山ノ神に供えて、朝、夕に拝んだ。オニオコゼを持参するのは、山ノ神が女神であるため美しいものに対しては嫉妬し山が荒れ、醜いものは喜んで山が静まると信じていたからである。

 また、彼らにとっての狩の本尊である秘巻には、日光派の「山達根本之巻」と、高野派の「山達由来之事」とがあり、縁起、秘法などが書かれていた。

 山でのマタギの生活は、山ノ神への祈りと、様々な禁忌(タブー)、けがれを払う際の潔斎などによって、常に律されていた。禁忌を破った者は下山させられたり、水垢離、雪垢離、笹垢離を取らされ、時には“三間イタチクグリ”などのように裸で深雪の中に潜らされたりもした。

  マタギの狩猟法

 マタギが主とした春グマ猟には、三通りある。

 穴狩りは、秋田県阿仁でアナガリ、山形県小国でアナヤマ、新潟県三面でタテシなどと呼ばれ、早春、まだ巣篭もりしているクマを槍や銃で捕る。巻狩りは、阿仁でマキガリ、小国でマキヤマ、三面でデジトリなどと呼ばれ、融雪期、巣篭もり穴から出て歩き回っているクマを捕った。

 秋グマ猟も行われていたが、金になるクマの胆は春クマの方が大きいため、春グマ猟が主であった。何故なら、クマは冬篭り中、消化の必要がないので、春グマの胆のうが胆汁でいっぱいになっているからである。

 こうしたクマの胆は、万病薬として高価であるため、現金収入の少ない山村で“胆一匁金一匁”といわれるほど貴重なものとなっている。

 マタギは、クマ以外にもカモシカ、サルなどの獣を捕った。特に三面マタギの“スノヤマ”(カモシカ猟)は、厳冬期の巻狩りによる槍猟で、厳格な神事、禁忌その他の厳しい狩猟習俗で知られている。

 捕った獲物は、肉や皮だけでなく、血、脂肪、脳みそ、舌、骨、腸、性器など、ことごとく自家用として利用した。

 このように獲物の処理ひとつとっても、彼らは生活にはゴミとなるものが殆ど出ない。殺生した以上は、とことん利用する。それが獣の霊をなぐさめ、山ノ神への感謝の気持ちにつながると信じていたからである。そのことは、アイヌや海人も同様で、自然物を糧とする民の共通した生き方であり、哲学でもあった。

 マタギは、ブナの森の豊かな恵みが、しきたり、掟、禁忌といった約束事で、将来に渡り、保証されることを知っていた。例えば、小国マタギは、山頂越えのクマは撃ってはならないし、三面マタギは、獣が逃げ込んでも追ってはならぬ聖域を持つことによって、必要以上の乱獲を戒め、上手な資源管理を行っていた。

 ところでマタギの鉄砲は、明治30年代までは火縄銃であったが、その後、村田銃に変わり、昭和初期からの元折れ銃と共に主流となっていた。

 やがて、水平二連銃、四連発自動銃、スコープ付ライフル銃と、高性能な銃に変化していくにつれ、人間のほうが圧倒的優位に立ってマタギの狩猟習俗も形骸化していく。この鉄砲の変換と期を同じくして、戦後の民主主義の世相が、マタギの厳しい戒律をさらに崩壊させて行ったのである。

 また猟場であるブナの森も、戦後になって各地で皆伐され、マタギの生活基盤そのものが分断され縮小し滅んでいった。

 今日では、マタギの伝統的狩猟習俗も、殆どその姿を見ることはできない。

 そして、むしろ、趣味による狩猟人口の増大と共に、高性能なライフルによる乱獲、生息域であるブナ林の乱伐によって、今やクマの生息そのものが脅かされ、その将来が危惧されるようになった。

伝統的な阿仁マタギの正装

  古くから伝わる鷹狩りの手法

 そのほかブナ帯に伝承する狩猟としては、マタギのように専業的とは言えないが、鷹使いによる鷹狩りも知られている。

 俚諺(りげん)に「鷹骨折って旦那の餌食」というのがあるが、これはこの鷹使いからきている。

 ブナ帯の鷹使いは、主にクマタカを飼いならし、ノウサギ、ヤマドリなどを捕獲する。

 この鷹狩りは、古く中央アジアの遊牧民の間で行われていたものが、朝鮮半島を経て日本に移入されたと考えられている。群馬県堺町武士古墳群、同県神川村の古墳などからは、古墳時代の鷹匠や飼鷹の埴輪が出土している。

森へ入る

 「仁徳記」「大宝律令」「新修鷹経」などにも記述されているように、元来、皇族、貴族の遊猟であった鷹狩りも、近世には将軍、藩主などの武将にも広がり、主にハヤブサを使ってキジやヤマドリを捕った。武将に仕えた鷹養いは、鷹匠、鷹師と呼ばれ、タカの餌を調達する餌刺しと共に城下に暮らした。かつて秋田県では、佐竹藩時代の名残である鷹匠町、餌刺町などの町名も残っていた。この武将による庇護を離れた専業の鷹匠が、その技法を民間に伝え、ブナ帯の山間部に鷹使いが生まれていったと考えられる。

 秋田県下では、明治から昭和初期にかけて、かなりの鷹使いがいた。彼らはクマタカやオオタカの巣子(巣にいる雛)、飛び巣子(巣立ち間じかの幼鳥)、出鷹(成鳥)を捕獲し、飼いならして、単独猟を主とした。また鉄砲打ちと共同で行う場合もあり、そのときは巻狩りが中心となった。

 鷹使いは、大型獣を獲物とするマタギのように、山泊りや遠出せず、日帰り猟をおこなう。また彼らは山での神事、捕獲儀礼、掟、禁忌などの厳格な狩猟習俗を持たない。

 現在では、クマタカ、オオタカそのものが、クマ同様に、密猟やブナ林乱伐によって個体数が激減してしまったため、特殊鳥類に指定され保護されている。最近まで、山形県真室川町、秋田県羽後町などに細々と伝承されていた鷹使いみ、今日では途絶えざるをえない状況になっている。

古老を囲み打ち合わせ

クマの胆を仕上げる

獲物を分ける

恵みのブナの森

ブナの森では、遥か縄文の昔から営々と生命の論廻が繰り返され、鳥や獣ばかりか、人もまたブナの恵みに依存し続けた。

 「母なる森・ブナ」工藤 父母道 記

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